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Little me

本、映画、ドラマ。感じたことをそのままに。

未来のために戦う -"MILK"/「ミルク」

アメリカに来てからの話。お店でハート型のリングケースを見つけた。"MR&MRS"と印字してある。ふと横を見ると、"MR&MR"のものが。その隣には"MRS&MRS"。3通りの組み合わせをあたり前のように用意していた。

アメリカ最高裁が同姓婚を認め、Web画面がレインボーに染まったのが記憶に新しいが、この映画は同性愛者であることを初めて公にカミングアウトした活動家の話である。

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ショーン・ペン主演、ガス・ヴァン・サント監督による社会派ドラマ。自らゲイであることを公表し、マイノリティの社会的地位向上に努めた活動家、ハーヴィー・ミルクの波乱の半生を描く。(Amazon商品紹介より)

主人公が"We are not sick"と演説でうたうところは感動的だ。「僕のことをおかしいって。矯正するために施設に入れられてしまうんだ」と電話をかけてきた車椅子の男の子のように、自然摂理にも神にも背いているとして差別を受けてきた人たちの声が"マジョリティ"に向かっていくうねりは圧巻だった。

ところで、この「未来のために」という姿勢は自分にはどうも欠けていて、反省の多い毎日である。Facebookの創始者Mark Zuckerbergが去年娘が誕生した際に破格の寄付を行ったことで話題になったが、そのときに"A letter to our daughter"という投稿の中でこうしたためていた。

Like all parents, we want you to grow up in a world better than ours today.(中略)We will do our part to make this happen, not only because we love you, but also because we have a moral responsibility to all children in the next generation.

これを読んだ私は「はあ~」と感嘆ともため息ともふぬけの声ともいえる音を出してしまった。自分は自分のことばかり考えていた。子供を産み一時的に海外移住したことでこれまでの生活が一転したが、これからどう子育てと自分の時間との折り合いをつけていこう、キャリアをどう積んでいこう、と悶々としていた。もちろん子供の将来も考えるが、自分の子供にどんな環境と経験を、という範囲での話にすぎない。それがFacebookのCEOたるや、次世代の全ての子供たちの未来のためにわれわれ大人は責任を負っている、と言っているのだ。自分の器の小ささに恥ずかしくなってしまった。

また、未来を創る、未来のために戦う、というときにどうしても個人単位での活動をすぐイメージしてしまう。でも映画の中で主人公がムーブメントを作っていったように、本来は仲間を広げて大きな力で動いたほうがいい。その方が楽しいはず。

うちの赤ちゃんが20歳になる頃、どんな世界になっているといいだろう。自分はどう貢献できるんだろうか。

 

儚い存在の母を持つということ -"INTERIORS"/「インテリア」

ウディ・アレンの作品は強く好きな理由はないのだけれども、つい見てしまう。アメリカ映画の中では、都会的でシニカルで舞台台詞のような長いセリフが印象的、という位置づけ。今回見た映画は珍しく淡々と暗いトーンだった。

インテリア [DVD]

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ロングアイランドの高級住宅地。30年連れ添った夫婦に突然別居話が持ちあがる。ショックで妻は自殺未遂し、3人の娘たちは愛人を作った父親を責める。しかし、夫の連れてきた愛人は不思議な魅力に溢れていて…。 (Amazon商品紹介より) 

この映画を見て感じたことは2つ。

1つは、家族という独特の枠の中で自分を評価してしまう寂しさ。次女のジョーイは"芸術的"なものを好みそのセンスが尊ばれる家族の中で育ち、自分には才能が欠けていると、特に長女の姉に対してコンプレックスを抱いてしまう。自分に自信を持ちきれず、自分を大切にできない。そこに、父親の再婚相手という全く違う人種があらわれて、「ただ楽しかった。それじゃいけないの?」という、斬新な"単純な"感想を言われた時の、家族の間に漂うざわざわ感。そういう基準はこれまでなかったのだ。

自分が結婚して義理の家族と話すようになってから、"家族という枠の中での価値感"を強く感じるようになった。同じものに触れたときの感想の投げかけ方が、自分が育った家族とまったく違うのだ。というかそもそも、同じものを見たりしない。初めは自分の言うことがまったく浮いているようで、寂しく感じることもあった。ただそれは逆に、今まで自分が育った"家族という枠の中での価値感"に応じて生きてきたから楽だっただけなのだ。結婚するということはこの異質な価値観を混ざり合わせて、また新たな価値観を作っていくということ。ジョーイではないが、私の弟はその枠に収まらず、多少なりとも辛い思いをしていたようだ。

そしてもう1つは、母親という存在は、家の雰囲気を作り、家族の心を支配してしまいかねない、ということ。この映画の中で、潔癖で上品な母親が心のバランスを崩し始めると、家族皆が調子を狂わせてしまう。すでに成人し離れて暮らしたりしていてもだ。母親が繊細で儚い精神の持ち主であると、こうも影響を与えてしまうのか。私自身の母はどちらかというと明るく天然で、年々逞しくなっているが、たしかに日本とアメリカという離れた距離で暮らしていても、母がそのような存在でいてくれていることが私の精神の安定になっていることは間違いない。またもしかしたら、分析好きでアドバイスの多い父に対して、母はあえて自分をそう見せることで家族のバランスを取ろうとしてきたのかもしれない。酔っ払ったジョーイが母親を見て、これまで心につかえてきた苦しい思いをぶつけてしまう。それでも最後には "but I love you"というのだ。愛しているから、余計に辛い。

家族を題材にしたものを見ると、子供を産んだ今となってはただの感想ですませなくなってしまう…。夫と私以外に色んな価値観で生きる大人に触れてもらうことで、子供が生きやすいように。子育ては頭でっかちになるとやる事はいくらでもあるが、まずは自分をフラットにオープンにして子供の心の安全基地となるように。これが大切、と自分に言い聞かせてみる。

 

強い女性はNYの街が生み出す -"The September Issue"/「ファッションが教えてくれること」

この映画を見るのは2度目になる。"The Devil Wears Prada"(プラダを着た悪魔)のモデルのドキュメンタリーと言われるが、映画があながちフィクションでもないことがわかる。

ファッションが教えてくれること [DVD]

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 アメリカ版「ヴォーグ」の名物編集長、アナ・ウィンターに密着したドキュメンタリー。ファッション業界で絶大な影響力を持ち、『プラダを着た悪魔』のモデルともいわれる彼女の妥協を許さない仕事を通し、働くことの厳しさと喜びを映し出す。(Amazon商品紹介より)

ヴォーグの編集長といえばファッション業界のみならずNYを中心とした経済界に大きな影響力を持っていることは、業界にいない私でも十分に分かる。彼女の仕事ぶりは妥協がなく、そこには変な慈悲やえこひいきがない。その意味で見ていて気持ちがいい。できるだけ周りに良く思われたいという愛され願望を捨てた女性は本当に強い。

私もNYにいるスーパーウーマンにかつて仕えたことがあった。立場的には雲の上の存在だったが直接レポートする機会は多かった。彼女は寝る時間以外はブラックベリーを常にチェックし、特にはマシンガンのようにメールを連打し時には怖いほど静かに間を置く。寝る時間といっても4時間ほどなので、その寝静まっている間、ちょうど日本のお昼すぎから夕方にかけて、彼女に与えられた問いに対する答えを起床までに用意すべく狂ったように物事を進めていたのが懐かしい。なので"The September Issue"を見たときはアナ・ウィンター本人よりもスタッフたちに共感して見入ってしまった。

そんな雲の上の存在の仕事ぶりを目にしながらも、NYで働くということは私にとって憧れだった。スピードと刺激のある毎日、最先端のファッションやアートやライフスタイルに触れながら、あの街をわがもののように闊歩できたらいいなあ。NYへの転勤の機会を狙っていたのは言うまでもない。

とはいえ、そうは簡単には物事は進まないので、まずは旅行で訪れることにした。社会人3年目、初めての1人旅だ。ちょうどクリスマスの前にあたり、NYはイメージよりもさらに活気よく、人は幸せそうに、ショーウィンドウの中は踊りだしそうに見えた。ついに来た、憧れの地…!目に映るもの全てが新鮮で、買ったばかりのブーツの底がすりへるほど歩き、1ブロックごとにカメラのシャッターを切り、この空気を忘れないようにと道の真ん中で大きく深呼吸をした。

私はホテル代を浮かせるために、マンハッタンから川を渡ったニュージャージーでアパートの一室を借りて泊まっていた。日本人の男性とアメリカ人の女性の初老の夫婦がオーナーだ。そこから毎朝、マンハッタンへ向かう通勤バスに乗って観光へ出ていたのだが、何日かたってだんだんワクワクから妙な気持ちに変わってきた。トンネルをくぐるとき、何だか大きいとてつもないエネルギーに吸い込まれていくような気がするのだ。東京育ちの私は大都会には慣れているはずなのに、それでも広い宇宙にぽつねんと小さい私がいるような途方もない気持ちになってしまった。

翌日、オーナー夫婦と会話をしてその理由が分かった。手際よく奥さんの方が朝食を用意するので感心して(朝食をふるまわれて一緒に食べていた)、「結婚する前から料理はしていたの?」と聞くと、「まさか、とんでもない!結婚した初めは包丁の握り方すらしらなかったよ」と旦那さん。本人曰く、「だってNYに住んでいて独身で料理する理由なんてある?色んな世界中の料理がどこでも手に入れられるんだから買えばいいし、洗い物もしなくてすむ。だいたい、仕事が終わったらアートや映画を鑑賞に行ったり友達と会って飲んだり一人でカフェで本を読んだり、やることがいっぱいあるんだから。地下鉄も24時間動いてくれてるから、家は帰って寝るだけ。結婚したら家でご飯が食べたいなんて言われてびっくりしちゃったわよ」とのこと。この合理的な考え方!そう、NYからは生活臭がしないのだ。もちろん、高い家賃をゆうに払えるセレブばかりではないが、それでも皆が毎日の生活のルーティーンにかける時間やエネルギーを"もったいない"と考えていそうな空気を感じる。それがNYに来て感じた違和感だったのだ。その中でトップクラスの仕事をし稼いでいる女性たちが、誰よりも強く鋭くなるのは当然のこと。これに気がついて、ここで働くということに関してしゅるしゅると自信がなくなってしまったことを覚えている。

憧れの地、NY。もし住む機会があったとしたら、私はそのエネルギーの中で埋もれずにサバイブできるのだろうか。母となった今なら逆に逞しく生き抜けるのだろうか。

魔女は悪役でも魔女になりたかった -"The Witches", Roald Dahl/「魔女がいっぱい」

 ロアルド・ダールの著作を続けて読んだ。  

The Witches

The Witches

 

この世の中、ほんとうは魔女がいっぱいいるんだ。ある日、魔女の集会をのぞき見たぼくは、運悪く見つかってつかまっちゃった! 魔女にネズミにされた少年が、おばあちゃんと力をあわせ、魔女に闘いを挑む奇想天外な物語。(Amazon商品の説明より)

 魔女の描き方が本当におどろおどろしくて、大人になった今でも夜ベッドの中で一人読んでいると背中がひんやりする。ウィッグで隠したつるりと髪のない坊主頭、つま先のない四角い足、鈎針詰めのとがった指先…。一倍恐ろしい魔女の親玉は、顔は溶けたようにただれていて、原書だと英語の話し方に特徴があり、恐らく東欧の女性をイメージしている。この女性蔑視とも捉えかねない徹底的な描写や、残酷すぎる魔女の仕打ちを見ていると、児童書とは思えない。さすがロアルド・ダール…。

主人公の男の子の機転の良さや、おばあちゃんのチャーミングさが救いで、話の終わりは前向きだ。たった二人で世界へ冒険に出ようとウキウキして終わるところなんて、読んでいてとても楽しい。

と、話の中心はもちろんこの2人で、魔女は悪役なのだ。だが思い返してみると、私の小学校の時の将来の夢はなんと"魔女"だった。

何でだろう…魔女ものの小説や漫画をたくさん読んでいた気がする。小さい魔女オズの魔法使い魔女の宅急便ときめきトゥナイト赤ずきんチャチャ…。とにかく自由に空を飛んだり、魔法をかけたり、今の自分には絶対できないことをなしえる万能感がものすごくかっこよかったのだ。物語の中では、良い魔女、悪い魔女まざっているが、そのどっちだっていい、魔女になれるなら悪者でもいいっ!と息まいていた。

その非現時的な将来の夢は途中で絶たれることになる。母にこう諭されたのだ。「女はね、年とればみんな魔女みたいになるから、目指す必要ないよ」と…。真意は謎だが、たぶん嫌われることをものともせず逞しく、人の心をうまーく操る器用さを身につけていくんだよ、と言いたかったのだろう、と今となっては察している。こんなこと夢見る小学生に言う母も魔女だよな、まあ実際自分もその姿に近づいてきているからあながち間違いじゃないよなあ。

でも、やっぱり今でも、ホウキで空を飛んでふらっと知らない街に住んでみたりしたい。

子供の頃の自分が見つかる -”Matilda”, Roald Dahl/「マチルダはちいさな大天才」

そうだ、小さい頃に好きだった本を原著で読んでみよう。

そう思って最初に手にした本がこのMatildaだった。ロアルド・ダールの本が好きで好きで繰り返し図書館で借りては読んでいて、とりわけこのMatildaに夢中になっていた記憶があったからだ。

Matilda

Matilda

 

読み返してみると、ストーリーの細かいところの記憶はおぼろげだ。主人公のMatildaが天才少女で、でも親は彼女の才能というか彼女自身に無関心で、そこで原石に気がついてくれる優しい先生に出会えて…というところまでは覚えていたが、横暴な校長先生の下りは「ああ、そうだったかな」という程度だった。(主要人物なのに…)

ストーリーは明快で、大人でもするりと読めてしまう読後の良さ。しかし、なぜとりわけこの本が好きだったんだろう。ふと考えてみる。

おそらく、Matilda自身に自分を重ねて気持ちよくなっていたのだろう。もちろん彼女の才能に、ではなく、本に夢中になってぐんぐん想像の世界を膨らませていく姿に、だ。図書館にせっせと通い家に持ち帰ってはうっとりと本の中に入れ込む。それはまさにMatildaを読んでいた頃の私自身だった。自宅のカウチに深く座り込んでホットチョコレートを脇に置き、「さあ、時間の許す限り」とページをめくる描写なんて、彼女のわくわくが伝染してくるようだった。3人姉弟で一人部屋のなかった私は、誰にも邪魔されないように部屋の隅に小さく丸まって、本が運んでくれるここではない何処かに私だけの世界を創り上げていたのだ。

そんな自分を思い出して懐かしくなるとともに、Matildaに戻って本や映画の世界に夢中になるのも悪くなあ、と楽しい気分になった。